月のせい

気楽なエッセイ

昔の記憶

 小学校低学年の頃である。マンションの向かいにある体裁ばかりの花壇の縁に足をかけて自転車に跨り、前輪の少し前方の地面を見ていた。そこには誰かが捨てたであろうアイスの袋が落ちていた。僕はそれをじっと見つめた。袋も見返してくるようであった。その時に、はっきりと自覚的に思ったのだ。この袋のことを一生覚えておこうと。多くの物がその時々に連続的に意味を持って僕の日常に近づいて来たが、すぐに景色の中に溶け込み、名前も失い、その他の無数となって失われてゆく。一日のどれほどがそのようにして消えてしまうのか。おそらくは一日のほとんどがそうなってしまうのだろう。認識するのはほんの上澄み程度で、そのいくらかが記憶として残る程度なのだと思う。そういう気持ちを言語化して持てぬほどの年齢の僕であったが、漠然とこのビニールを一生覚おくことで、得体の知れぬその流れに抗ってやろうと決めたのだ。それから三十年近く経ったが、今でも鮮明に覚えている。

 もう一つ、昔の記憶で不思議なことがある。僕は母に抱かれていた。そこは何やら教会のようで目の前には女性が裸で横たわっている。眠っているようだ。死の概念はおろか、まだ言葉も知らぬはずの自分は、この女性は死んでいるのではないと感じた。それは後に多少頭が働くようになってから、死というものと関連付けて『女性は死んでいないと感じた』という澱となって定着したのかも知れない。いずれにしても、そこに女性が横たわっていたのだ。その肉体は淡紅色の花に埋まり、その周囲には幾人かの人がいた。部屋全体が柔らかい空気で満たされているようであったので、そこには女性しかいなかったのだろう。皆が手に一輪の花を持っていた。その花は目の前で眠る女性を静かに飾り立てる花と同じものであった。手にされた花の下には針が付いていて、皆は仰臥する女性の身体にその花を咲かせた。それは献花のようであった。

 この記憶は何なのだろうか。宗教めいた儀式のようであるが我が家は代々無宗教であるし、母親に聞いても知らないと言う。夢でも見ていたのだろうと。しかし、夢にしては当時赤子に近い僕が知るはずのないある種の様式を夢の中で想像することなど出来るわけがないのだ。とはいえ、僕はスピリチュアルな事象を信じているわけではない。そのようなものが仮に存在するなら幻想的かもしれないなとは思うが、幻想を野を丸腰で駆けるには論理的な証拠があまりにも乏しい。現実的な可能性があるとするならば、ぼんやりとした如何様にも変化し得る幼児の記憶が後天的に学んだ秩序によって、肉付け着色されたのだろう。とは言うものの、しっくりこないのである。

そんなお話。